東海道53次 29.見附-天竜川舟渡し
佐野喜版(1840)
「狂歌東海道」-横大判56枚揃物
彫師:堀田治 / 摺師:品川勝夫
浮世繪之美 - vol.3129
狂歌入り版「見附」には、「天龍川舟渡し」という副題が付いています。なぜなら、嘉永4年(1851)の前掲『東海道風景図会』に「天龍川は見付けより上一り半はかりに有」と記されるように、宿場から相当離れた所を天龍川が流れていたからです。同風景図会は、さらに、「川はゞ十丁斗。一ノせ二ノせの二りうとなる。是を大天龍、小天龍といふ。信州諏訪湖より出て、末は海にそゝぐ」と続けます。狂歌入り版が天龍川東岸・池田村側から西岸・中の町方向を望むものならば、乗懸の旅人と大天龍を高瀬舟を使って渡る人々の情景を描いていると言えます。また、小天龍は対岸の川岸を下る人々によって暗示されるに止まっていると考えられます。なお、天保13年(1842)の前掲『東海木曾兩道中懐寶圖鑑』「見付」を見ると、中洲の東側を小天龍、西側を大天龍としていますが、「あばれ天龍」との異名があるとおり、洪水によって瀬の位置が頻繁に変わり、呼び名も時々に変わった証拠と見るべきでしょう。安政5年(1858)の『五海道中細見記解題』は同風景図会と同じです。
宿場としては、「見附」の手前の「袋井」が江戸からも、京からも27番目で真ん中に当たります。これに対して、距離(60里)としては、前掲図鑑は、天龍川西岸の「中の町」が「京と江戸の真中と云」と記しています。いずれにしろ、旅人達は、天龍川の船渡しを終えてやっと旅の半分まで来たと感じたに違いありません。
さて狂歌内容は、昔のことですが、初めてここに来て指差して富士の頂きを見付けたのが見附宿であるという由来を語るものです。『東海道名所圖會 巻の三』(前掲『新訂東海道名所図会中』p216)に、「富士山あらわに見ゆるゆえ見附台という」とあって、京より下った旅人が、ここで初めて富士山の雄姿を見付けたのが地名の元であると伝えています。狂歌はまさにその由来をそのまま歌にしたものです。天龍川からは富士山は見えず、見附宿に至ってようやく富士が見えることを前提として、広重は天龍川を描き、狂歌師は見附台(見附宿)を詠い、それぞれ役割分担していることが窺えます。この趣向の延長線上に、三代豊国・広重『雙筆五十三次』「見附 天龍川舩渡」(安政元年・1854)の美人の見返り図があります。
むかしたり 初てこゝに ゆびさして
見附の宿の ふじのいたゞき
朝霞庵於㐂金
歌川廣重(Utagawa Hiroshige,1797-1858)
《東海道五十三次》爲浮世繪大師歌川廣重成名作
描繪由江戶至京都的53個宿場
包含起點的江戶日本橋和終點京都内裏共56景
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